隼人工業高等学校 同窓会(隼工会)
歴史・80周年
母校は1948年(昭和23年)に生まれました。校名も、学科も、校舎も、何度も形を変えてきました。それでも変わらなかったのは、ここで学んだ人がそれぞれの現場へ出ていったという事実です。
いまの校舎(2026年8月)
隼人工業のあゆみ
ご自分が在学された年のところを、どうぞ探してみてください。
1948年(昭和23年)3月31日町立鹿児島県隼人高等学校として認可発足。普通課程を本科として、建築科・木材工芸科・農芸科・家庭科をおく
1948年(昭和23年)6月14日初代校長 柳田精蔵先生 着任
1950年(昭和25年)4月1日建築木材工芸課程の本科切替が認可される(農芸科は廃止)
1951年(昭和26年)3月本館落成
1956年(昭和31年)4月1日鹿児島県立隼人高等学校と改称
1957年(昭和32年)機械科教室・実習工場、木材工芸実習室、建築設備実習室が竣工。新運動場の設備も完成
1958年(昭和33年)11月15日創立10周年記念式典
1960年(昭和35年)4月1日木材工芸科を工芸科に改名
1962年(昭和37年)4月1日鹿児島県立隼人工業高等学校と校名変更。工芸科を産業工芸科と改名。昼夜間部に機械科を新設
1966年(昭和41年)公認プール竣工。夜間部機械科の募集停止
1967年(昭和42年)4月1日この年の入学生から全日制に切替(定時制課程は募集停止)
1970年(昭和45年)〜1971年(昭和46年)本館管理棟の増築工事(1〜2階、続いて3〜4階)
1972年(昭和47年)5月15日体育館竣工
1973年(昭和48年)4月1日産業工芸科をインテリア科と科名変更。本館管理棟が竣工
1976年(昭和51年)4月1日建築科の募集停止。普通科を新設(1学級)
1980年(昭和55年)の学校祭
1982年(昭和57年)のハンドボール部
1988年(昭和63年)4月1日電子機械科(2学級)・情報技術科(1学級)を新設(普通科と機械科は前月末で募集停止)
1989年(平成元年)3月31日電子機械科・情報技術科の実習棟(3階建)竣工
1993年(平成5年)8月21日同窓会(隼工会)の会則が施行され、会が発足
1994年(平成6年)3月22日家庭科棟 新築
1996年(平成8年)の情報技術科の実習
1998年(平成10年)3月25日水泳プール新設工事 完成
1998年(平成10年)11月21日創立50周年記念式典。同じ日に亡師亡友之碑の除幕式と慰霊祭
2008年(平成20年)11月14日創立60周年記念事業・式典・記念講演
2018年(平成30年)11月10日創立70周年記念式典
いまの野球部。大会の入場行進です
2028年(令和10年)創立80周年
学科の名前のうつりかわり
木材工芸科(1948年)→ 工芸科(1960年)→ 産業工芸科(1962年)→ インテリア科(1973年)
インテリア科は、開校当時から名前を変えながら続いてきた学科のひとつです。1997年(平成9年)2月には、県内のインテリア科では初めて2年生の現場実習を実施しました。
校章の由来
校旗と、校訓「至誠・自律・友愛」の書
校章は、学校の設立が認可された1948年(昭和23年)3月31日に、意匠を広く一般から公募して選ばれた作品です。当選作がそのまま正式に採用され、校章が生まれました。
バックに隼人の頭文字Hを象り、それにはやぶさの羽根2枚を組み合わせ大空に高く強くはばたく学園の隆昌を象徴したもので、徽章は洋銀イブシで高の文字を銀色とした。
考案されたのは、当時の工芸科の教諭 松田経廣先生です。
校訓は 至誠・自律・友愛。「なにごとにも真心を持ち」「自らに規範を課し」「広く人を愛する」という意味です。校歌は西原しげみさんの作詞、林幸光さんの作曲によるもので、歌詞は学校の公式ページでご覧いただけます。
制服に刺しゅうされている簡易マークは、これとは別に、在校生が考案したものが採用されています。(このマークをご紹介してよいかは、学校にお伺いしているところです。)
歴代校長
初代から現在まで、25人の校長先生が母校を預かってこられました。
初代柳田 精蔵1948年6月14日 〜 1959年3月31日
2代築島 秀雄1959年4月1日 〜 1965年3月31日
3代本田 厚志1965年4月1日 〜 1968年9月6日
代行重留 彪一1968年9月7日 〜 1968年11月15日
4代松田 護1968年11月16日 〜 1972年3月31日
5代内上堀 達雄1972年4月1日 〜 1974年3月31日
6代早淵 尚武1974年4月1日 〜 1977年3月31日
7代馬場 篤俊1977年4月1日 〜 1980年3月31日
8代篠原 公一1980年4月1日 〜 1985年3月31日
9代稲本 和市1985年4月1日 〜 1988年3月31日
10代徳留 末雄1988年4月1日 〜 1990年3月31日
11代是枝 勝巳1990年4月1日 〜 1993年3月31日
12代原口 藤雄1993年4月1日 〜 1996年3月31日
13代永井 英一郎1996年4月1日 〜 1998年3月31日
14代横山 正治1998年4月1日 〜 1999年3月31日
15代橋本 將司1999年4月1日 〜 2001年3月31日
16代淵田 穣2001年4月1日 〜 2004年3月31日
17代西 洋二2004年4月1日 〜 2006年3月31日
18代本門 俊男2006年4月1日 〜 2009年3月31日
19代野元 信一郎2009年4月1日 〜 2012年3月31日
20代祁答院 宮子2012年4月1日 〜 2014年3月31日
21代福永 和雅2014年4月1日 〜 2017年3月31日
22代帆西 弘幸2017年4月1日 〜 2020年3月31日
23代大迫 浩之2020年4月1日 〜 2022年3月31日
24代竹元 美徳2022年4月1日 〜 2024年3月31日
25代室屋 真一2024年4月1日 〜 (在任中)
初代の柳田精蔵先生は、10年にわたって母校を導かれました。2代の築島秀雄先生は、1962年(昭和37年)に工芸科の教員を千葉大学工学部へ国内留学させ、その成果をもとに翌年、全国の工芸科教育研究大会を母校の単独事業として開いています。
亡師亡友之碑
母校の敷地には 亡師亡友之碑(ぼうしぼうゆうのひ)が建っています。
1998年(平成10年)11月21日、創立50周年の記念事業として建立され、記念式典に先立って除幕式と慰霊祭が行われました。
慰霊祭で読み上げられた「祭詞」には、次のように記されています。
顧みますれば、昭和二十三年旧隼人青年学校跡に町立鹿児島県隼人高等学校として創立以来、校名・学科と幾多の変遷をかさねた五十年の星霜に感無量の思いが致します。
同じ祭詞に、当時の同窓会員が 7,600余名 を数え、日本各地はもちろん海外まで人材を送り出してきたことが書かれています。祭詞を読まれたのは、創立50周年記念事業実行委員会 委員長の 園畑大嘉志さんです。
2028年の創立80周年でも、慰霊祭を記念式典と併せて行う予定で準備を進めています。
2028年 創立80周年へ母校は2028年(令和10年)に創立80周年を迎えます
10周年、50周年、60周年、70周年と、母校は節目ごとに卒業生が集まってきました。80周年は、その次の一区切りです。
2026年9月26日の総会から準備を始めます。学校・PTAと三者で実行委員会を立ち上げ、記念式典と慰霊祭、記念誌の準備を進めていく予定です。
くわしく見る
写真館母校に残る写真を、一枚ずつお預かりして並べています
創立五十周年記念誌の35ページから41ページには「50年間の足跡」と題した写真の章があり、1951年(昭和26年)の本館落成から1998年(平成10年)の文化祭まで、およそ半世紀の学校生活が並んでいます。
いま出せる写真は、まだ多くありません。記念誌の写真には在校生や卒業生の顔が写っているものが多く、母校にお伺いしてからでないと外に出せないためです。学校のお返事をいただき次第、順に増やしていきます。
くわしく見る
出典
このページの事実は、次の資料で確かめています。学校の公式ページの文章は転載していません。
- 鹿児島県立隼人工業高等学校 公式ページ 沿革/歴代校長/校章・制服/校訓・校歌
- 創立五十周年記念誌(1998年11月) 20ページ「祭詞」/31ページ 歴代校長/35ページ 校章の由来/92ページ 各学科の現況
- 隼工会 会則 附則(1993年8月21日 施行)
※ 1948年(昭和23年)の学科名、体育館の竣工年など、資料によって記述の分かれる箇所については、学校にお伺いしているところです。